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絶景の瞬間
2021.12.04.Sat
12.20.Mon
キュレーション 大倉佑亮
アーティスト 石川竜一+森ナナ
主催 The 5th Floor、HB. (HB. Collective) 協力 赤々舎, 絶景社, 瞬間社 デザイン 塩谷啓悟 お問い合わせ 大倉佑亮: yusuke.okura0725@gmail.com The 5th Floor: info@the5thfloor.org
[キュレーターステイトメント] 経験を生きなければならない。それは容易く到達できるものではない。しかも、知性によって外側から考察されもしない[…]。推論的思考が分離しなければならないものを統合しながら経験が現れるのは、失神するまで内側から生きるときだけなのである。  ジョルジュ・バタイユ『内的体験』 「経験」を「絶景の瞬間」と読み変えてみたい。 「絶景」とは石川竜一の言葉であり、「瞬間」とは森ナナの言葉である。 「絶景の瞬間」を生きるとはいかなる時間なのだろうか? 本展では、石川と森が自身の表現を振り返る際に出て来た言葉—〈絶景〉と〈瞬間〉—をキーワードに、その関係性を探ってゆく。写真と書という全く出自の異なる表現方法を選びながら、ふたりの表現の核にはどこか繋がりがあるように感じられる。 また、本展における試みとして、石川と森の表現を並べてみるだけでなく、ふたりの存在を出会わせ、初共同制作を通じて、〈絶景の瞬間〉とはいかなる時間かを探究していく。 まず、私たちが確認しないといけないのは、ふたりの人間の特異な世界認識の方法である。 彼、彼女のメッセージだけでなく、私たちはそのメタ・メッセージを読み取らなければならない。 石川竜一は、「必然」を畏れている。 それは彼がカメラとの出会いを「偶然」と回顧していることからわかる。 彼は、自身の地元である沖縄に住む人、建物、草木、動物、ありとあらゆる生物や事物に出会い、対象と真正面から対峙し、その存在を受け入れるかのように撮影してきた。そのスタイルは、最新シリーズ〈いのちのうちがわ〉でも変わっていないように思う。それは撮影の技術的な点ではなく、対象との出会い方、あるいはその出会いそのものを作家自身がどう物語るかという点についてである。 写真集『絶景のポリフォニー』において掲載されている石川のステイトメントには、「僕ら」は、歴史に規定される自己矛盾にフラストレーションを抱えながら、「起こるはずのない特別な瞬間」=「偶然」を待っていると語られる。誤解を恐れずに言えば、石川は、自身の生の必然性(この時代この土地に生まれたこの石川竜一でしかないこと)から解放され、「自分の経験や培ってきた概念をできる限り捨て、今この時と向き合う」ように写真を撮っていたのではないだろうか。 本展で展示される〈絶景のポリフォニー〉シリーズにおける〈絶景〉の意味は、生の必然性(=死)から彼自身を解放し、彼がシャッターを切るたびに「偶然」と思えるような、驚き(=生の偶然性)に満ちた景色だと言えるだろう。 一方、森ナナは、「偶然」を畏れている。 それは彼女が書との出会いを「必然」と回顧していることからわかる。 書を生業とする家庭環境に生まれ、幼少期より書に親しむ中で、書の型=形式的本質をその〈外側〉から追求し制作していた。そして、東京藝術大学の大学院修了制作時に、「これ以上は書に〈内側〉から向き合うことでしか進めない」という強迫観念を得たという。 彼女は、書くことの本質が〈命懸け〉(=生の必然性)にあると直観し、書の〈一回性〉という型=形式的本質をその〈内側〉から追求する。墨、紙、筆のみを用い、始点があり終点がある一回という極めて限定された行為の中で、湧き出してくる線のイメージを、彼女の身体が獲得するまで何度も書き、意識と無意識の間で­「向こうからも形になる瞬間」があるという。 「ただそうでしかない」と説明される彼女の作品は、タイトルはなく(タイトルを付けようとするとどうしても違和感があるという)、誤解を恐れずに言えば、内容的には全くの無意味に見え、ただ〈一回性〉という書の形式的本質を備えたのみの、彼女の生の必然性(=死)を記録した〈瞬間〉と言えるだろう。 このような地平に立ってふたりの表現を眺めてみると、石川の〈絶景〉は、「偶然=生」と翻訳され、森の〈瞬間〉は「必然=死」と翻訳しても大きな間違いではないだろう。 この二つを結びつけるのは〈一回性〉である。〈一回性〉とは、私たちの生/死の形式的在り方そのものである。 〈絶景の瞬間〉とは、生と死のあわい、まさに〈生きること〉そのものなのではないだろうか。 私たちが、彼、彼女の作品に打ちのめされるのは、一回の生を、一回の死を、物質=モノとして贈与されるからである。 私たちは、彼、彼女の生/死から、作品だけを切り離して批評することはできない。なぜなら彼、彼女がある特異な仕方で、生を、死を、言葉の真の意味において畏怖する人間であるからだ。 ふたりの人間から生み出されたモノを贈与された人間は、彼、彼女に何かしらの返礼をするしかないのである。私自身がそうであるように。 大倉佑亮
大倉佑亮 1988年 兵庫県生まれ、京都市在住。 京都大学総合人間学部 創造行為論専修 卒業。 瞬間社 代表。 寳幢寺僧院長/武術家、龍源師に師事。 現在、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の運営、京都芸術大学美術工芸学科非常勤講師を務める。
石川竜一 1984年 沖縄県生まれ。 2010年、写真家 勇崎哲史に師事。 2011年、東松照明デジタル写真ワークショップに参加。 2012年「okinawan portraits」で第35回写真新世紀佳作受賞。 2015年、第40回木村伊兵衛写真賞、日本写真協会賞新人賞受賞。 主な個展に、2014年「RYUICHI ISHIKAWA」gallery ラファイエット(沖縄)、「zkop」アツコバルー(東京)、「okinawan portraits」Place M(東京)、「絶景のポリフォニー」銀座ニコンサロン(15年 大阪ニコンサロン)、2015年「okinawan portraits」The Third Gallery Aya(大阪)、「A Grand Polyphony」Galerie Nord(パリ)、2016年「okinawan portraits 2012-2016」Art Gallery Artium(福岡)、2017年「考えたときには、もう目の前にはない」横浜市民ギャラリーあざみ野、「OUTREMER/ 群青」アツコバルー(東京)、2021年「いのちのうちがわ」SAI(東京) 主なグループ展に、2016年「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」森美術館(東京)、「Body/Play/Politics」横浜美術館(神奈川)、2017年「日産アートアワード2017:ファイナリスト5名による新作展」BankART Studio NYK(神奈川)、2019年「Oh!マツリ★ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」兵庫県立美術館(兵庫) 写真集に、『okinawan portraits 2010-2012』『絶景のポリフォニー』『adrenamix』『okinawan portraits 2012-2016』『いのちのうちがわ』(いずれも赤々舎)、『CAMP』(SLANT)がある。 森ナナ 1990年 福岡県生まれ。 書家の家庭に生まれ、幼少期より書に親しむ。 2016年 東京藝術大学大学院美術研究科 先端芸術表現専攻 修了。 主な展示に、2018年 森ナナ展「Nucleus」KANAKAWANISHI GALLERY(東京)がある。 作品制作に並行して、ライブパフォーマンス、ワークショップ、講義なども行う。来年度より京都芸術大学非常勤講師。