“induce calm and a space to think" while remaining "as ignorable as it is interesting" ‐Brian Eno.
「 諸和尚子莫妄想 天是天地是地 山是山水是水 僧是僧俗是俗 」 ‐道元
作品は作品で、その正面に立つあなたもまた、あなた。
遠くに見える星や、山を見つめると、星や山に過ぎないが、
どこかで感じた音景やフレイバーがする。
すれ違う人や、ことや、ものに、ふと、どうしようもなく想いを馳せる。
が、そのなにかは、もう近くにいない。
そのどれもこれも、が、見つめていてもぼやけている。
そっと息をすると、それだけで、共に居るきがするのです。
本展覧会、「港, 飛行, 為, 音楽(PORTS, AIR, FOR, MUSIC)」は、鑑賞者と参加作家、作品たちが観光客となり、意味と無意味、無意味と意味の間を浮遊し、旅をする。
本展覧会は、参加アーティスト兼、キュレーターである、Andrea Istvan Franziniと{ }(cacco)の道前碧の出会いが先立つ。昨年、2023年8月、イタリアはミラノ。遠く地平を隔てた二人の人間(作家)は、共通点(美術)の中で偶然出会い、目と目を見つめ合い、語り合った。私たちが目にする景色は至って必然的な偶然の重なり合いの下に成り立ち、意味を持つようにして、無意味な“私たち”は、生産と消費の円環を辿っている。
そうして、二人の会話から無目的に抽出された四つの言葉、「港(PORTS)」、「飛行(AIR)」、「為(FOR)」、「音楽(MUSIC)」、そしてこの語群から連なる無意味な意味の連鎖からこの展覧会を構成されている。要するに、傍から見ると頓珍漢に見える営み(コミュニケーション)の中で、独特の相互了解の境地が、展覧会として形を見せている。
しかし、一般的なそれと違うのが、二人のコミュニケーションで起こり得る“バグのようなもの”の存在である。Andreaはイタリア人訛りの英語を話し、道前は多少の言語能力は有るもののネイティブのそれとはほど遠い。ほぼ全ての会話が、お互い短い散文、もしくはいくつかの単語の羅列で繰り広げられ、you know? で締めくくられる。このような中で生まれる“些細な誤読”が私が称する“バグのようなもの”である。通常の展示ではこのようなことが起きないように細心の注意が払われ、そのコミュニケーションが何重にも行われ、幾つかのメディアにデータ化されたりもする。だが、二人はそれをしない。無意識の範疇、美術という共通言語の中で、共通の言語野を形成し、形を整えていく。きわめて短い言い回しで、その詳細を語り合わずに。
このようなやり取りは、本展覧会のそれぞれの作家性、作品にも繋がる。
Marco Strappatoと道前碧の作品はどちらも、現代における流通の加速が生み出したフラットな世界に対し、敢えてそのイメージを流用し“虚像としてのユートピア”を笑顔で差し出してくるようなアンビエンスな主体性で訴えかけてくる。また、Andrea Istvan Franziniとみずかみしゅうとは、そのようなフラットな社会に於ける私小説を、よりポエティックで浮遊した言語で語りかけてくる。Nataliya Chernakovaは無意味な言語のトートロジーの連鎖を、キャンバスに絵具をのせるといった、よりベーシックな方法とその手つきで語りかけ、Robin Worrt はどこかの誰かの誰かへの献辞を切り取り、宙に配置してはその言語的な営みの浮遊性を際立たせる。
無目的で偶然にも必然に成り立つ本展覧会は、各作家、作品もまた、それぞれ違う手法、メディアで、意味と無意味、目に見える物質と本質の間を行き来する。このそれぞれの営みと、それぞれが寄り添い合い生まれる関係性は、私たちが生きる今、そして私、と私と生きるもの、を理解する手助けをしてくれるのではないだろうか。
共に生きる私たちは、無意味にも意味を求め、望み、拒み、生きている。
私たちがこうして作品たちを、展覧会という形で配置し、あなたがここにいることは、針の穴を通すようにして生まれた奇跡なのかもしれない。
それではみなさん良い旅を!